熊本城コース
(その三)

                 


            


            008 道路元標跡
            009 二の丸広場と時習館跡
            010 旧細川刑部<ぎょうぶ>邸




 

     008 道路元標跡(札の辻)


道 路 元 標 跡
 加藤氏時代から明治維新まで二七〇年間、肥後の国の路(豊前・豊後・日向・薩摩街道)の起点であった。
 また、細川氏時代はここに高札場があり、通称「札の辻」といった。・熊本城の正門・西大手櫓門に通じる「新一丁目御門」が置かれていた。

                                           





 

     009 ニの丸広場と時習館跡 

工事中  二の丸は、薩摩街道を経て豊前街道を利用する島津氏への備えでもあったという。
 江戸時代にはここに藩校『時習館』が置かれ、文武の講習が行われていた。明治四年(一八七一)には鎮西鎮台の兵舎が置かれ、加屋霽堅<はるかた>戦死の碑や軍旗奪還の碑など、神風連関係の史跡で当時が偲ばれる。
 この広場の北側には飯田覚兵衛が造った有名な百間石垣があり、細川藩家老長岡監物<けんもつ>(興長)の屋敷跡には監物台樹木園がある。また広場西側には県立美術館もある。

                                           






 

     010 旧細川刑部<ぎょうぶ>邸(県指定重要文化財)    


旧 細 川 刑 部 邸
 細川(長岡)刑部家は、細川氏三代・忠利の弟、刑部少輔興孝<ぎょうぶしょうゆうおきたか>が正保三年(一六四六)に二万五千石を与えられ興した。
 延宝六年(一六七八)に子飼にお茶屋を造り、後に下屋敷とした。刑部家は代々「刑部」か「図書<ずしょ>」を名乗り、家禄一万石で活躍した。明治四年熊本城内に鎮台が置かれ、城内の武家屋敷は一斉に城外に移った。刑部家の当主興増<おきなが>は、同六年子飼(子飼の下屋敷)に移り本邸とした。
 旧刑部邸は鉄砲蔵が付属した長屋門を入ると、唐破風<からはふ>の御玄関に至る。ついで御客間から入側<いりがわ>造りの表御書院、二階建の「春松閣」とつづき、一階は「銀の間」と呼ばれている。
 別棟は、書斎の付いた茶室「観川亭<かんせんてい>」・御宝蔵・台所があり、全国有数の上級武家屋敷としての格式を持っている。
 熊本市は平成五年に子飼から移築復元した。