8月1日~5日

8月5日(金)

〇今日で夏休み15日目です。いかがお過ごしでしょうか。朝から雨が降りましたが、西区の方から来た職員に聞いてみると、西区の方は雨が全然降らなかったということでした。

 

温故知新=ふるきをたずねてあたらしきをしる

 

 昔を語るNO4

〇昭和30年代後半から40年代前半に経験したことです。自転車の荷台に紙芝居をのせた、紙芝居屋さんが時々来ていました。いくらお金を出していたか思いだすことはできませんが、子どもが出せるお金なので安かったと思います。(当時、棒についた、バナナアイスが1本5円でした。)水あめをもらい、ピンクのうすいせんべいのようなものに、絵が彫ってありました。それを、きれいにくり抜くと、水あめがもう一本もらえました。「黄金バット」は覚えています。時々、紙芝居屋さんの後をずっとついていき、帰りが遅くなり、親に叱られたこともあります。もう一つ「ロバのパン」も時々来ていました。実際ロバに、荷台を引かせて来ていました。蒸しパンです。とても好きでした。(いつも買えるわけではありません。)お豆腐屋さんも、自転車の荷台に豆腐や油あげを積み、ほぼ毎日来ていました。よく、なべを持って、豆腐や油あげを買いに行かされていました。

 

〇皆様は、熱を出したり、体調が悪くなったらどうされますか。病院に行かれますよね。私も病院に行っていました。それ以外に夜遅くても、往診というものをしていただいていました。近くにT医院がありました。いつも快く来てくださっていました。ありがたかったです。診察をされた最後に、母親が、洗面器にぬるめのお湯を入れ、そのお湯でT先生が手を洗われていたのを覚えています。我が家では、熱を出したり、体調が悪くなったりしたら、なぜか「ももの缶づめ」がでていました。わけはわかりません。しゃっくりがでたときは、おわんに水をたっぷり入れ、上からはしを十文字にし、4か所から水を飲むとしゃっくりがおさまっていました。各家庭で、いろいろな習慣ややり方がありますね。

 

〇現在、私が住んでいるところでは、家から出た燃えるごみは、ごみステーションに置き、週2回、回収に来てくれます。私が小学生の頃、各家庭の庭先に縦・横・高さ70cmぐらいの、コンクリートで作られた、立方体のごみ入れが設置されていました。たまったごみは、各家庭でよく燃やしていました。学校にも焼却炉がありました。私は、小学生の頃、焼却炉当番もしたことがあります。また、教員になっても、焼却炉をよく使っていました。給食ででたごみ、学級ででたごみ、毎日燃やしていました。平成5、6年ごろから学校の焼却炉が使用禁止になったと思います。焼却炉のごみの燃やし方にはコツがあります。一度にたくさん燃やすと、よく燃えません。少しずつごみを入れることがコツの一つです。また、空気をたくさん入れてやり、かき混ぜることもよく燃えるコツです。ただし、頭から灰をいっぱいかぶっていました。

 

〇私が小さい頃、藤崎八幡宮秋季例大祭の神幸行列は、毎年9月15日と決まっていました。城山から新市街に行くことを「町に行く」と言っていました。毎年、神幸行列と一緒に、飾り馬をみるため、町に行っていました。馬が暴れ出し怖い思いをしたこともあります。その帰りに、今はありませんが、大洋(たいよう)デパートの大食堂で、食券を買い、お子様ランチかチャンポンを食べることがとても楽しみでした。屋上には小さな遊園地があり、そこで遊んだこともありました。保護者の皆様の、お父様やお母様(児童にとっては祖父母)が私の年齢と近いのではないでしょうか。何かの機会がありましたら、大洋デパート大食堂の話などをしていただけると幸いです。

 

 〇今日の映像は、1992年(平成4年)頃の、ほたるの飼育の様子です。

  

8月4日(木)

〇昨日(8月3日)の新型コロナウイルス陽性者数は、熊本県で過去最多の4414人でした。8月3日、熊本県は新型コロナウイルス感染症対策に係る「熊本BA.5対策強化宣言」を発令しました。この宣言のもと、高齢者など重症化リスクの高い方々が、必要な時に必要な医療を受けられる、医療提供体制を守り、社会経済活動を継続できるように、熊本県民一体となって取り組んでいこうというものです。詳しい内容は、熊本県ホームページ等に掲載されています。そちらをご覧ください。

  

 昔を語るNO3

〇先日は、気温のことについてお話しました。私の中で、気温の変化とともに、大きく変化したなと感じていることが、情報伝達手段(電話等)です。今日はその話をします。

我が家に電話がきたのは、私が小学生の頃です。それまでは、どういうふうに情報を伝えていたかというと、近くにお米屋さんがありました。そこには電話があります。また、有線放送もあります。我が家と連絡がとりたい人は、まずお米屋さんに電話します。お米屋さんに有線放送で、我が家を呼んでもらいます。その後、お米屋さんから電話を借りて、かけなおしをしていました。親戚に訃報等があった場合などは、電報というものがありました。郵便局の方(?)が、早朝だろうが夜遅くだろうが、昼夜を問わず、電報を家まで届けてくださっていました。情報伝達手段の1つとして、長い間定番だったのが、家庭に備え付けてあった固定電話です。しかし、1990年代になると、「ポケベル」が女子高校生の間でひろまりました。今のようにメールはできません。数字の組み合わせで、例えば「0840=おはよう」などです。実際ポケベルを使用された保護者の皆様もいらっしゃるかもしれませんね。私が、携帯電話を持ち始めたのが、1990年代後半からと記憶しています。最初の携帯電は、電波を受信するため、小さいアンテナを伸ばしていました。現在、携帯電話やインターネットの普及で、全世界とつながっています。私が小学生だった頃と比べると、想像できないくらい進歩しています。メリット、デメリットをしっかり考えながら使用していきたいですね。下記に載せる文は、熊日新聞「読者ひろば」に投稿した文です。令和3年10月28日付けで掲載されました。

 

情報伝達手段今と昔大違い

私が勤めている小学校は、児童数1000人を超える大規模校です。6年生も170人近くいます。先日十月十四日・十五日、一泊二日で修学旅行に出かけました。まん延防止等重点措置も解除され、天気にも恵まれた二日間でした。

今から約四十年前、私が教員になった頃の修学旅行も、現在の修学旅行と、行く場所や学習内容はほぼ同じです。平和公園に行き、語り部の皆様の話を聞き、浦上天主堂や原爆資料館に行きました。大きく違うところは情報伝達手段です。当時は、有線放送を使用し、「〇〇小学校、修学旅行団は、無事〇〇旅館に到着しました。」と放送していました。映像はというと、カメラで写真を撮り、写真屋さんで現像してもらい、それを広用紙に貼り、子どもたちや保護者の皆様に見て頂くまでには、早くても数日かかっていました。

現在はというと、スマホのメールで、ホテル到着を知らせます。映像は、職員のタブレットの中にある「チームス」という機能を使い、映像が学校に送られてきます。その映像を学校ホームページに掲載します。その日の夕方には、長崎の地で、子どもたちが、どんな活動をしていたかを閲覧することができます。これから、他の学年も、みかん狩りや通潤橋見学などが待っています。タイムラグ(時間差)ができるだけ、でないように、掲載していこうと思っています。ただ、全世界に広がるので、これまで同様、二重三重のチェック体制で臨んでいきます。

 

〇今日の映像は、1974年(昭和49年)に行われた、創立100周年記念式典の様子です。映っている児童のみなさんは、現在60歳前後になられていると思います。

  

8月2日(火)

〇昨日は、菊池で気温が37.7度でした。熊本市でも、35度を示していました。今日も、明日も気温が高くなる予想が出ています。水分をこまめにとり、気をつけてお過ごしください。

 

 昔を語るNO2

〇気温が35度以上になる日を「猛暑日」と言いますね。私の小学校時代(昭和39年4月~昭和45年3月)、とても暑いなあと感じた日の気温は、32度ぐらいでした。当時は、気温35度など経験したことがなかったです。クラーなども我が家にはありませんでした。あるのは扇風機だけです。夜はかやをつって(はって)、窓を開けて寝ていました。かやの上に風船をおいてよく遊んでいました。また、意味はよくわかりませんが、雷が鳴ったら、かやをすぐにつって、かやに入り、雷がおさまるのを待っていました。当時の気候と今の気候を比べてみると、今がとても暑くなったというのが私の感想です。

 

 

〇昭和30年代の道路状況はどうだったかというと、主要道路、例えば国道3号線や家の近くの県道1号線、大きな道路等は舗装されていました。しかし、一歩わき道に入ると、砂利道のでこぼこ道でした。昭和30年代後半から40年代前半にかけ、急激に道路の舗装化が始まったと思います。今では砂利道を見つける方が難しいですね。

  

〇現在、熊本市電は、熊本駅~健軍電停、上熊本駅~健軍電停の2路線です。私は、市電のことをチンチン電車と呼んでいました。それは、電車内にひもがあり、それを引っ張ると「チンチン」と鳴っていたためです。私が知っている限りでは、私の小学校時代には他に、川尻線と黒髪線(私は子飼線と呼んでいました。)があったことを覚えています。川尻線にはよく乗っていました。それは、母方の祖母(平成24年、105歳で亡くなりました。)が近見に住んでいたためです。電車乗り場は、現在の看護リハビリテーション学院近く(?)だったと思います。昭和40年頃廃線になりました。私が中学3年生の時、部活動で子飼線に乗り、濟々黌の体育館に行った記憶があります。翌、昭和47年に廃止になりました。他にも、実際乗車したことはありませんが、私が生まれる前には、田崎から坪井川河口付近にあった百貫石電停(百貫港ひゃかんこう)までの、百貫線があったことを、父や一緒に住んでいた祖母から聞いたことがあります。

 

 

 

 

〇夏休み、德永学校主事は大忙しです。今日は職員室付近の草切をやってもらいました。いつもありがとうございます。

 

 

 

 

 

〇以前、本校に勤務されていた先生方が撮られたであろう、写真の整理をしています。今日はそのいくつかを紹介します。時代は1969年(昭和44年)~1971年(昭和46年)頃です。卒業式や入学式、入学式後の交通安全教室や潮干狩り、運動会や先生を囲んでの謝恩会等です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月1日(月)

〇8月に入りました。夏休みも、残り4週間です。暑さに加え、コロナ陽性者数が減少しません。十分気をつけてお過ごしください。

〇7月30日(土)、午前6時頃、ホームページ等のチェックをしていました。そのとき、画図小ホームページ、のべ閲覧者数が「123456人」になっていました。児童が学校に来ている時は、1日平均閲覧者数は約125人です。夏休みに入ってからは、約70人になっています。閲覧していただいた方々に、わかった、よかった、ためになったなどと思っていただけるよう、これからも工夫をしながら、情報を発信していきます。

 

〇先週金曜日(7月29日)、德永学校主事に「中村汀女先生コーナー」を移動してもらいました。これまでは、放送室前の所に掲げてありましたが、そこは児童の目が届きにくいところです。そこで、子どもたちがよく行き来する、家庭科室(調理室)前の廊下に移動しました。私(ホームページ担当者)が画図小に来て7年が経とうとしていますが、その前からありました。藤の枝を利用して作られています。とても手のこんだ、よく作られているものです。2学期からは、子どもたちの俳句などをたくさん掲示していきます。 

 

 

〇夏休み期間中は、子どもたちが学校に来ないので、ホームページに掲載する内容が少なくなります。そこで、考えてみました。私は他のホームページ担当者の方々より、少し年齢が多い(65歳)です。そこで、昭和30年代、40年代・・・生活様式や学校の様子はどうだったか、私の経験したことを掲載していきます。

昔を語るNO1

〇高橋稲荷神社のすぐ近くに住んでいました。借家です。家にはお風呂はありません。近くの銭湯に行っていました。銭湯でおぼれたこともあります。洗濯はどうしていたかというと、亡き母は、たらいを使って、手洗いで洗濯をしていました。休日には、近くに、川とつながった共同洗濯場があり、そこに出かけていました。母から聞いた話ですが、おんぶされていた私は、ひもがゆるみ、洗濯場の水の中に、頭から落ちたということもあったそうです。昭和30年代後半、我が家に洗濯機がきました。一層式です。脱水は、二本のローラーの間を通すものでした。次にきた洗濯機は、二層式でした。洗うところと、脱水するところが分かれていました。脱水は遠心力をつかったものです。洗い終えた洗濯物を、ぎゅっと抑えこまないと、衣類が脱水するところからとび出します。ときどき、ガタガタガタとものすごい音をたて、洗濯機が止まっていました。よく止まっていたので、鮮明に覚えています。今はボタン一つで全てやってくれますね。テレビも昭和30年代後半に、家にきました。もちろん白黒テレビです。4本の脚の台の上に、ブラウン管テレビがのっていました。今のように薄型ではありません。奥行きが40~50㎝はありました。テレビ局は、NHKテレビとRKKテレビだけでした。その後TKUKKTKABテレビなどが増えてきました。ブラウン管の前には、目が悪くならないように、ブルーのプラスチックのようなものがかけてありました。テレビをみるときは、テレビの画面に布がかけてあったので、それをひきあげます。みないときは、カーテンのように布をおろします。もちろんリモコンなどはありません。電源は、押したり、引いたりするボタンです。チャンネルは、ぐるぐる回すものでした。「ひょっこりひょうたん島」などをよくみていました。

 

 

 

〇今日も朝から、窓の補強工事が行われました。お世話になります。

 

 

 

 

〇ひまわりです。すくすくのびています。もう少ししたら、花を咲かせてくれるでしょう。風が強かったです。

 

 

 

 

 

 

 

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