西原小の歴史

1.西原小学校ができるまで

 わたしたちの学校ができて、平成30年(2018年)で53年になります。では、昭和41年(1966年)に西原小学校ができるまで、この校区の子どもはどこの学校へ行っていたのでしょうか。

■保田校(ほでんこう)
 今から130年ほど前、学校をつくって子どもたちを教えようという国のおふれが出ました。それで、この辺りをおさめていた戸長の赤鉾(あかほこ)という人が、南部校・長嶺校など6つの学校をつくりました。保田校はその中の一つで、はじめ吉田先生一人で教えました。
 学校といっても、よその家を借りての授業で、書き方・読み方・算術(算数)などを勉強しました。
 吉田先生のあとは、荒尾保夫(あらおやすお)、荒尾延彦(あらおのぶひこ)という若い先生でしたが、二人は明治9年(1876年)の神風連の乱にくわわり、ついには腹を切って亡くなられてしまいました。
 その後、いく人かの先生がかわって教えましたが、長く続かず、とうとう学校はたっていかなくなりました。これでは困るので、村総代(そうだい)の佐藤喜次郎(さとうきじろう)さんが中心になって、荒木軍蔵(あらきぐんぞう)という人を先生にお願いし、明治13年(1880年)10月3日、ふたたび保田校が開かれました。
 入学生は30名ほどで、ひとり十銭の月謝をおさめましたが、はっきりした学年もなく、生徒は試験をうけて合格すると進級しました。
 その後、明治17年(1884年)の大あらしで損害を受けたことをきっかけに保田校と南部校がいっしょになり、新南部に以文校(いぶんこう)がてきました。生徒は318名、先生は4名でした。
 ところが、明治19年(1886年)1月、コレラというおそろしい病気がはやり、保田窪の方では、生徒を遠くまで通わせるのはかわいそうだという人もいて、また学校は二つに分かれました。

 

■保田窪尋常(ほたくぼじんじょう)小学校
 明治23年(1890年)、長嶺・御領・保田窪の三つの村がいっしょになり、広畑村ができました。保田校の名もそのころ保田窪尋常小学校になりました。
 荒木先生は明治38年(1905年)、48才で亡くなられましたが、教え子たちがたてたお墓が保田窪の墓地にあります。

 男の子はもめんのつつそで、女の子は少しそでが長いくらいでした。勉強道具は石ばん・石ひつ、習字は草紙といって紙を三・四十枚たばねたものに、ふででけいこをし、それがかわくまで外でほすのです。夜はランプの光で本を読みました。男の子の遊びはこままわし、たこあげ、竹うま、女の子はお手玉やまりつきをした。(そのころ入学した1町内 松本武男さんの話)
 
■広畑小学校
 保田窪・長嶺の二つの学校は、明治35年(1902年)4月、いっしょになって広畑尋常小学校となりました。このとき、新南部の子どもも供合校(ともあいこう)からはなれて広畑校に通うようになり、ふたたび保田窪・新南部の子どもがいっしょの学校になりました。

 生徒の数は350人ぐらいでした。先生が8人、1年から6年まで1クラスずつでした。ほかに高等科が1クラスで、授業の始めと終わりはかねで合図しました。
ふだんは木綿の着物、式などの時は、はかまをはきました。かばんはなく、みんな勉強道具はふろしきにつつんでもって行きました。(明治41年 広畑小学校入学 3町内 吉武清さんの話)


 大正になると生徒も増え、教室をたてまし、昭和2年(1927年)には運動場も広げました。
 昭和16年(1941年)、日本とアメリカの間に戦争が始まり、広畑国民学校とよぶようになりました。戦争ははげしくなるばかりで、空しゅうのため学校は村のお寺やお宮にわかれて授業がありました。
 戦争が終わり、新しい教育が始まり、名前も広畑小学校となりましたが、食べ物や道具がなくたいへん苦労しました。
 昭和30年(1955年)1月、託麻村の誕生により 託麻西小学校と名前をかえましたが、新南部と保田窪は翌年、熊本市へ編入されることになりました。

■託麻原小学校
 今まで、東の方の託麻西小学校へ行っていたのが、こんどは西の方の託麻原小学校へ通うことになりました。託麻原小学校は、昭和29年(1954年)4月にできたばかりの学校で、児童数は1500人ほどでした。

■帯山小学校
 昭和33年(1958年)、帯山小学校がつくられ、保田窪の子どもは また学校を移ることになりました。何度も校区が変わるので反対する人もありましたが、1,2,3,4年生が、さきに移りました。
 しかし、帯山小学校付近は家がますます増え、昭和39年(1964年)に尾ノ上小学校ができても、なおふくれるばかりでした。そこで、保田窪、新南部、南郷団地方面に新しい学校が必要になってきました。

2.西原小学校のたん生

■西原の名前
 はじめ、保田窪、新南部の人は、それぞれの地名を学校の名前にしようという人、二つをいっしょにして「新保」にしようという人などがありましたが、けっきょくは、むかしの地名をとって「西原」にしました。
 ところが、阿蘇に西原中学校という学校があり、なれるまではまちがえられることがしばしばでした。また「西原小学校はどこですか」とたずねられることも多く、それではと、屋上に「西原小学校」のかんばんをかかげることにしたそうです。

■対面式
 昭和41年(1966年)4月1日、初代校長 井嶋範平(いじまのりひら)先生をはじめ、21人の先生が決まりましたが、校しゃはまたできあがっていません。そのため児童はふたつの学校に分かれて勉強しました。
 7月18日、二つの学校の分校ということで、まん中がつながっていない変な校舎でしたが、とにかく校舎は完成しました。そして8月20日、託麻原小と帯山小からきた児童たち342名が、ここにがっちりと手をにぎり合ったのです。

■開校式
 9月1日、よく晴れた暑い日でしたが、これまでおせわになった人をむかえて、開校の式がおこなわれました。
 まだ、さくもへいも一本の木もないぽくぽくの運動場、まわりはごぼうやいも畑てしたが、雑木林のはるか向こうには、あその山なみがのぞまれ、西原小学校の開校をいわってくれるかのようでした。
 そして、先生も児童もPTAの人たちもいっしょに、みんなでりっぱな学校をつくるのだと、かたくちかいあったのてす。

■ひとかぶのイトススキ

 こんどこそ本当の自分たちの学校です。地区の人たちのせいいっぱいの応えんもあって、学校のかんきょうは、ひとつひとつととのえられました。
 今、正門の近くにうえられているひとかぶのイトススキは、まだ開かれていない前の校地のすみにあったもので、そのころの苦労をしのぶことができます。

  校訓碑の横に植えられたイトススキ
             2008.10.28撮影

○開校当時の思い出
      第1回入学生 吉武裕子 (高校2年生の時に書いた作文)
 現在の西原小学校を見るたびに、わたしは開校当時の西原小学校を思い出します。畑の中に建てられた骨組みだけの校舎、それがわたしの最初に見た西原小学校てした。祖母たちから「あれは新しくできる小学校だ。おまえも4月にはあそこへ入学するんだよ」と教えられてもあまり実感がおかず、「ほんとに、学校ができるのかしら?」と半信半疑でした。
 四月になって私が入学するまでには、校舎はついにできあがらず託麻原小学校に入学し、西原小学校が開校したのは2学期からでした。
 「これでみんな西原小学校の1年生ばかりだ」とよろこんだことを覚えています。新しい鉄筋の校舎でよろこんで勉強をはじめましたが、運動場はまだ整地ができ上がっておらず、風が吹くと、土煙がもうもうと立ち、休み時間に運動場で遊んで教室へはいると、手も足も顔も真っ黒。互いに友達と顔を見合わせ、笑い合ったものてした。現在は校舎も運動場も開校当時の何倍も大きくなり、緑の芝や木が植えられて本当に美しくなったと喜んでながめています。

3.学校のあゆみ

■プールができる
 昭和42年(1967年)7月にプールができ、子どもたちを喜ばせました。また、何もなかった運動場にブランコやターザンぼうなど、つぎつぎに体育のしせつができました。

■校舎の増築
 西原の校区も、託麻団地を中心に大きくふくれあがり、児童の数は毎年百人以上ふえ続けました。そのため、昭和44年(1969年)にはプレハブ4教室、1970年3月には二つの校しゃがつながって、1971年3月には新校しゃ4教室、さらに1973年には5教室とつぎつぎにたてましがつづきました。しかし、それでも教室がたりず、先生たちのへやがなくなる年もありました。

■東バイパス開通
 昭和46年(1971年)3月、熊本東バイパス託麻インターチェンジ、保田窪間が開通し、西原ふきんの交通が大きくかわることになりました。この時、通学の安全のために、歩道橋や地下道もつくられました。

■五周年記念式典
 西原小学校の誕生5年目をお祝いする式が昭和46年(1971年)10月20日に開かれ、いろいろなもよおしが行われました。
 また、プールよこにりんどう園がつくられました。「五周年を語る会」では、そうりつのころの先生や地区の人達が集まり、学校づくりのくろうなどを語り合いました

■交通コーナー

 昭和46年(1971年)3月、正門のところに交通コーナーができ、正しい自転車の乗り方やおうだん歩道のわたり方などを勉強するのに役立ちました。現在は、玄関前の緑のコーナー(8の字公園)として小鳥も集まり、子どもたちのくつろぎの場となっています。

■体育館ができる

 昭和47年(1972年)9月、待ちにまっていた体育館工事が始まり、3月に完成しました。落成式は昭和48年5月24日に行われ、これで雨の日も安心して体育ができるばかりでなく、おく上でひらかれていた入学式をはじめ、音楽会なども、ここで行われるようになりました。
 ところが、このために運動場がせまくなったので広くすることになり、へいぎわのポプラも新運動場の南はしへうつしました。また東西につくられていたトラックも、南北190メートルのコースにかえられました。その後、社会体育用の夜間照明灯もたち、地域の人達のレクレーションなどに大いに役に立つことになりました。

■学校の緑化
 「みどりの学校」にしたいというねがいのもと、たくさんの種類の木、いろいろな花だんなどがつくられ、小さなすみっこも生かし工夫して育てられました。昭和45年(1970年)の緑化コンクール努力賞をきっかけに、こうした努力が今日までつづけられています。

■みたままつり
 昭和49年(1974年)、入学したばかりの一年生が、つづけて2名白川におぼれて死ぬという悲しいことがかさなりました。二度とこんなおもいをしないように、みたままつりをすることになり、1200人の児童が花やくだものをおそなえしました。

■管理棟ができる
 昭和54年(1979年)5月に管理棟が完成しました。校長室、職員室をはじめ理科室や音楽室などの特別教室がそろい、学校の施設もととのってきました。

■校舎改築
 平成3年(1991年)12月に校舎各階にトイレが設置され、平成4年12月には視聴覚室、和室が完成しました。また、平成5年からは、古くなっていた校舎の内装工事や外壁の塗装工事、玄関前塗装工事などがあり、校舎が見違えるほどきれいになりました。

■三十周年記念式典

 三十年間に学校はもとより、この校区も大きく発展しました。平成7年11月28日に三十周年をお祝いして記念の式典や作品展を開きました。西原小学校に関わる方々をお招きして、創立当時の話を聞いたり、6年生による西原小学校の歴史発表などがありました。

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