熊本市立西原小学校
学校紹介


校 歌
 開校して3年目の9月、松本弘先生作詞、出田憲二先生作曲で校歌ができました。小さくともりりしく美しいハルリンドウが学校のしるしとして、わたしたちの行く道を指し示してくれているのです。(ハルリンドウは開校のころ校地のざっ草の中にさいていたと言われています)


校 章
 1967年(昭和42年)12月、校章とともに校旗ができました。校章のデサインは、そのときの西原小学校の鶴長先生が考えられました。結びりんどうの花びらの先は「かぎりない発展」を、結びは「団結」「協力」「友愛」をしめし、ペンは「勉学」を、西は「西原小学校」をあらわしています。



校 訓
 西原小学校の子どもの心のよりどころとして、1967年(昭和42年)3月に校訓碑がたてられました。これには、初代校長井島先生の、
 
「心にまことの光、人生にたゆまぬ努力、この世に友愛の灯を」
の3つの言葉がきざまれています。




目指す児童像
 西原小学校の子どもは次のような子どもであってほしいというねがいをこめて、4つの児童像がきめられています。
・やさしい子ども (個性豊かな子ども)
・よく学ぶ子ども (自ら学ぶ子ども)
・元気な子ども (しなやかな体で生きる子ども)

・地域を愛する子ども (地域に生きる子ども)
 
校区の概要

1.沿革

(1)本校は、阿蘇外輪山の西の洪積層の末端に位置し、北方を白川が流れている。校区は採集狩猟の場に適していたらしく、縄文初期の遺跡とともに土器などが発掘されている。

(2)新南部の小蹟原からは、布目瓦が出土し、この辺りには昔、役所や大きなお寺があったと思われる。中世には、託摩氏の荘園支配下にあった。

(3)寛永11年(1634年)、細川忠興公が荒れ地だった保田窪に屯田制をしき、野筒組(鉄砲隊)として45戸の武士の家を作らせた。後に、この中から神風連に参与し、12名の戦死者または自刃した者が出た。

(4)新南部部落は、用水路馬場横井手に沿った農耕地帯であった。明治の町村制施行後、保田窪は広畑村に、新南部は供合村に属していたが、昭和31年、熊本市に編入された。

(5)昭和41年、保田窪の一部、新南部、渡鹿の一部を加え、西原校区が設定され、児童数324名で西原小学校が開設された。

(6)昭和46年3月、東バイパス、託麻インターチェンジ、保田窪間が開通し、通学安全のために、歩道橋や地下道も造られた。

(7)昭和62年、JR豊肥本線、東海大学前駅開設。平成3年12月には、校区を更に分断する北バイパスが開通した。

2.校区の特色
(1)本校区は、まだ僅かに農耕地を残してはいるが、南郷、託麻などの団地や住宅、工場、店舗、ビルなどの造成が進んでいる。

(2)校区には、東・北バイパス、供合、小山県道などの幹線道路や鉄道が走り、交通の要地と化し今後も一段と交通量が増える見込である。

(3)行政自治区としては、保田窪、大江渡鹿、新南部、託麻団地、託麻市営団地、鉄工団地、南郷団地があり、7町内に分かれている。

(4)開校当時農耕地に囲まれていた本校区は、団地や大型店舗の造成が年々進むにつれ、人口は増加し、都市化している。

                         2010.6.19更新

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