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採釣園と80記念館
(さいちょうえん)
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米田家別邸の庭園として寛文10年(1670)頃、作庭されたと考えられる。採釣園の「採釣」とは、唐時代の詩人韓退之(韓愈)も句からとったもので、命名者は藩主宣紀とされる。自然の地泉に築山を配した廻遊式庭園は、江戸時代の庭園形式を残すもので、近くには立田山、かっては遠く八方岳をも望むことができた。この由緒ある庭園も、戦災や幾たびかの水害等で往時の姿を保ち得ない状況であったが、市制100年事業の一環として整備された。 |
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米田家旧邸
(こめだけきゅうてい)
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この建物は、本来庭園の西南部(現北校舎階段出入口付近に)あったものを、校舎建築のため現在の位置に移したものである。江戸時代武家屋敷の数寄屋風の造りで、奥書院(居間)に相当する。江戸時代の格式にこだわらない自由さも見え、建築は明治初期と考えられる。なお、庭園内の石碑は昭和18年に建てられたもので、米田是容の辞世の歌「よしや身はかくて此世を去らば去れ魂は返りて君に仕えむ」を米田本子の字で刻している。 |
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必由堂跡
(ひつゆうどうあと)
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必由堂は、米田家子弟教育のための家塾で、藩校時習館と時を同じくして始めたと伝えられる。天保5年(1834)、米田是容のときに「必由堂」と改め、建物も新たにしたとされる。必由堂の命名者は時習館教授辛島塩井で、中国宋時代の儒学者程氏が「大学」を説いたなかに「学は必ず是に由って学ばば、則ち其の差(たが)はざるに庶(ちか)からん」とあるところからとったものである。 |
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井上毅誕生地碑
(いのうえこわし
たんじょうちひ)
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井上毅(18433〜1895)は、明治の熊本が生んだ近代文化功労者の一人で、大日本帝国憲法、教育勅語などの起草者として知られ、枢密顧問官、文部大臣などをつとめた。碑の近くにある井戸は、誕生の折りに使った産湯の井戸で「うぶゐ」と呼ばれている。幼名は多久馬、のち毅と改めた。必由堂、木下 村塾、時習館、昌平 に学び、明治維新後、岩倉具視、伊藤博文に用いられ、内政外交上数多くの重要問題立案計画にあずかった。碑は昭和14年に建てられ、撰書は赤星典大である。 |