アンネのバラ

西山中学校と「アンネのばら」

 第二次世界大戦中、ナチスのユダヤ人迫害から逃れたアンネ・フランク は、 アムステルダムに逃れ、隠れ家に身を潜めながら名著「アンネの日記」を書きました。  この隠れ家にあったアンネの愛したバラを、戦後ベルギーのバラ育種家がこれを交配し 「アンネのばら」として父親オットー・フランクに捧げたそうです。

 戦後そのうちの3本が東京は高井戸中学校へ送られることになったのですが、 その芽の一つを大切に増やしてこられた松山市の相原嘉寿雄氏を通して、 本校PTAへ生徒のためにと寄贈して頂くことになったのです。

 本校では1986年に行った立志式において、生徒一同の手によりアンネが熱望した平和を求め、 彼女のように愛と勇気を持って生きることを強く誓って、このバラを植えました。

 その後、1997年に創立50周年の記念行事としてばら園が整備されました。本校のページのタイトルを飾っているのが、そのアンネのばら園です。

 アンネのばらは、現在もまだ、西山中学校のシンボルとして、きれいに咲き誇っています。下記に西山中学校とアンネのばらを結びつけていただいた故 高木寛さんに
ついて、その功績を称えて、以前に行われたばら集会の記事とともに掲載しています



 

 

「アンネのばら」と西山中を結びつけた 高木寛さん

高木寛さん

 故 高木寛さんがPTA会長を勤められていた1985年~87年。本校で「いじめ」事件が起こりました。 この事件については新聞テレビ等を通じて報道され、当時の全教師・生徒が結束して手に入れた本校の誇りを失いかけていました。

 絶望の淵に立たされた私たち。しかし、これではいけないと 保護者と学校がお互いに理解しあい手に手を取ってがんばろうと再出発を心に誓ったのです。

 その再出発のシンボルが「アンネのばら」なのです。

 アンネのばらは決して販売されないことになっているのですが、高木さんのご尽力で、 西山中学校の生徒が「アンネの心」を生かす事と、「アンネのばら」を大切に育てる事を条件に特別に寄贈されることになりました。

 西山中学校の私たちにとってアンネのばらは、アンネ本人はもちろんのこと、このようにアンネのばらを本校に結びつけてくださった人々 ・その思いをいつまでも忘れずにいるためのシンボルなのです。

このばらがいつまでもキレイに咲き続けることを願ってやみません。

 

 

「アンネのばら ふれあいの集い」
 「わがまちの学校づくり推進事業」の一環として、地域のみなさまと共に企画した 「アンネのばら・ふれあいの集い」が、熊本市民会館で盛大に行われました。

 西山中学校が地域に密着した学校であることを実感したよき一日となりました。 下の写真はその一部ではありますが、集いの様子が伝われば幸いです。




ふれあいの集い スナップ集


 市民会館のロビーには「バラの来た道」など、地域の方々のパネル展示で西山校区の様々な活動を紹介してくださいました。
 

 オープニングを飾るのは一新幼稚園の和太鼓演奏。横手保育園の龍の舞と続き、その可愛い園児達の姿に私たちも顔もほころびっぱなしでした。
 

 巨大スクリーンを使い、西山中学校の生徒達によって学校と地域との交流の様子を紹介しました。写真は「ふれあい給食」の様子を劇を交えて発表している様子です。
 

 一新長寿会のみなさんによる、ハワイアンダンス。花などをあしらったムームーに身を包まれた姿に、生徒達からも「かわいい!」「キレイ!」との声が飛んでいました。
 

 地域に密着した文化の紹介として金春流 十時盛次さん達により謡曲「八島」を舞って頂きました。その荘厳な舞に私たちは息をのみ、伝統芸能のすばらしさに感動を覚えました。
 

 一新校区に古くから伝わる獅子舞。新町獅子舞保存会のみなさんにより今に伝わるその舞。舞終わった後の汗だくの子どもたちに拍手は鳴りやみませんでした。
 

 フィナーレを飾る全員合唱。市民会館にあつまった全員で歌う「バラが咲いた」と「西山中学校校歌」。その歌声は私たちの耳に、その思いと共にいつまでも残ることでしょう。
 

  閉会宣言のあと、西山中学校とアンネのばらを結びつけてくださった高木寛さんをご紹介し、惜しまれつつも他界された同氏の夫人へと生徒代表から花束を贈呈させて頂きました。
 

 

 

 

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